お祭りでフランクフルトを食べなきゃ来た意味がない。
雰囲気も味付けの一部になっているだろうと、冷めたことを思ってしまうけれど、やっぱり美味しい。
鉄板の上で焼かれて、持ち上げられたフランクフルトは、油でキラキラした胴体が焦げた部分と混じり合い魅力的な光沢を放つ。魅せられた方は買わない選択肢がなくなるのだ。
表面の橙色と、少し黄色がかった中身は祭りっぽくていい。
粗挽きソーセージもあるようだけど、祭りは体に悪そうな色が合っていて、洒落たものはいらないと思っているのは私だけだろうか。
この美味しさを家でも再現したい、好きなときにいくらでも食べられることは幸せだと、少しの高揚感で、キッチンに立つ。
まず、フライパンにフランクフルトを置くが、串が邪魔で浮いている。もう、何だよとフライパンに合わせて串を切ることにした。一応手で持てる長さはある、短いけど。
油を纏わせたフランクフルトは、お祭りのようなキラキラした感じじゃない、少しギトギトしている。でも、気持ち悪くない面持ちで妥協できる範囲でもある。
すごく甘やかして見ているのは好きなフランクちゃんだから。
食べてもお祭りの味はしないのは、鉄板じゃないからだろう。あと、外で焼いて食べることが何より美味しくなる調味料だろうと、今気付いた。
早速10年前に1度だけ活躍した、BBQセットを引っ張り出して準備を始める。綺麗に洗っていたのが良かったのか、きれいな状態で助かった。
早く焼きたい一心で、炭を……、無い、炭が無い。諦めないで買いに行くフットワークの軽さはフランクちゃんのためだ。
1時間経った。
急いで炭を入れ、火を起こす、「動けば動くほど腹が空いて美味しく頂けるぞ」フランクちゃんへの愛の強さが炎になっていく。
さあ、鉄板に油を引いてフランクちゃんを置くと、油とフランクフルトの少しの水分が弾ける。最高だ、太陽の光に照らされるフランクちゃんはアイドルだ。
焦げないように転がし、油を纏わせる。
フライパンで焼こうと思った自分を恥じていた、自由に踊らせることもできなかった狭い空間で、どうしたら美味しく輝けるだろうか、自由が効かない圧迫感のあるステージで輝くことなんてできないだろうと。
鉄板の上のフランクちゃんに見とれていたら、焦げてしまった。でも、フライパンの焦げとは光沢が違う。衣装の一部になっている、一体化しているのだ。
同じフランクちゃんではない、別人になっている。
やはり広くて自由に表現ができることは幸せなことなのだろう、これはフランクフルトだけの話ではない。人間にも当てはまる。弾ける油が綺麗だ。
フランクちゃんを太陽に照らし合わせて眺めてみると、宝石のように光っている。
「いただきます」頬張り噛みしめる、踊っていたころを思い出して、一口、二口と噛みしめる。でも、お祭りの味はしなかった。
残念だ、少しもお祭りの味がしない、炭の音はまだまだやる気でみなぎっていたが、期待していた味ではなかったし、これ以上焼いても味は変わらない。
高ぶっていた気持ちも一気に冷めて、炭の熱に苛立ちさえ憶える。期待を裏切られたときの後片付けほど嫌なことはない、心が荒んでくる。
金属の音が響くたびに、独りの虚しさ、寂しさが現実へ引き戻された。
フランクフルトを家でも食べたくて~祭りの思い出
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