愛犬が亡くなってから、スヌーピーに出てくるすべての犬が愛犬と重なってしまう。

ミニチュアダックスフンド、16歳。亡くなってからもう4年も経つ。
いや、まだ4年なのかもしれない。もう過ぎたことだろと言い聞かせている自分がいるのは、亡くなった愛犬と向き合っていないからだろう。
たれ耳がスヌーピーと同じで、耳を見るたびに愛犬の顔が浮かぶ。耳がたれていれば愛犬と重なるし、尻尾の揺れ方も似ている。まるで、スヌーピーが家族だったかのように思えてくる瞬間だ。

泣ける、感動した、と話題になっているアニメを見ても涙一粒流れなかった私が、『スヌーピー誕生』にだけは泣くことを知った。アニメって泣けるんだと。
我慢すればするほど溜まる一方で、一度流れ落ちるとダムの放水のように止まらない。
DVDを買った自分を少し恨む気持ちもある。時間の経過で悲しみは薄れるどころか、一層深まっているような気さえする。

不思議なことに、グッズや写真、思い出の品を見ても泣かないのに、アニメだけに反応する涙スイッチである。

愛犬を思い出すことは習慣になっている。散歩をした道を通れば「あ、ここで転んだよな」と思い出し、遊んだボールや咥えて離さなかったボールペンまで、思い出を追いかける習慣がついてしまった。苦しいとか悲しいとか、心の痛みはなくて、ただ思い出すだけ。思い出すたびに笑ったり、時々ため息をついたりする。

もう飼わない、死ぬから、と決めたのになぜかペットショップに行ってしまう。買いもしないのに、どうしても見に行きたくなるのだ。忘れないために行っているのかもしれない。毎日見たい気持ちはあるけれど、買わないことを自分に言い聞かせて我慢している。
犬を見ていると全部持って帰りたくなるのは、犬好きあるあるだろう。

YouTubeでは飽きるほど動物が溢れていて、好きなときに好きなだけ見られるのは悪だ。犬、猫、鳥、ハリネズミ、虫も流れてくるのは勘弁だけど、ありとあらゆる生き物が見られて楽しい。犬を見たらまた泣くだろうと覚悟していたが、意外にも涙は流れない。なぜだろう。本物の犬の方が泣けると思うのに、私の涙スイッチはスヌーピー専用らしい。

あるとき、ネットで「帰ってきたら我が家に犬がいた」というサプライズ動画を見た。前から欲しかった犬が、「ただいま」とドアを開けた瞬間に子犬がいる。
「えっ、なに?えっ」と困惑しているところに「家族が増えた」と伝えられる。
見るからにキラキラと感動した顔に、思わず私の涙腺も崩壊した。しかもアニメ以上に泣きすぎて笑った。もう、どれがスイッチなのか分からない。

涙を拭きながら、ふと思った。もうこの動画は見ない、と。
また泣くことがわかっているから。スヌーピーと愛犬のたれ耳に、私はいつもやられてしまう。涙を流すたびに、愛犬を忘れていない確認をしている。

それでも、笑いながら思う。スヌーピーに泣かされるなんて、ちょっと変だ。普通は本物の犬や猫に泣くものだろうに。でもまあ、私の涙スイッチはこういう仕組みになっている。
愛犬はもういないのに、思い出すだけで笑ったり泣いたりできる。そう考えると、悲しみだけじゃない。

ペットショップに行ったり、YouTubeを見たり、スヌーピーのDVDを手に取ったりしながら、私は今日も「泣き笑い」の日々を過ごしている。
愛犬がいなくなってから、ちょっと変わったスイッチを手に入れた。
泣けて笑える涙スイッチだ、最高に変な気分だ。
私の弱さを知っている、愛犬からの「忘れるなよ」の贈り物なのかもしれない。

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